今や「日本を代表するジャズ・アーティスト」だけでなく、文化人としてさまざまな国際交流の舞台でも世界的に活躍する渡辺貞夫。活動範囲も多方面に及ぶが、彼のすばらしいところは、常に音楽が真ん中にあり、それが前進し続けていること。
渡辺貞夫がプロ活動を始めて今年で58年め。ジャズをルーツにさまざまな音楽を取り入れ、自身の音楽の世界を広げ続けてきた。そしてそれらは常にシーンの先駆だった。日本でボサ・ノヴァを広く知らしめたのも、フュージョンをお茶の間まで認知させたのも、アフリカ音楽を身近にしたのもみんな渡辺貞夫の功績だ。その都度(頑固なジャズ・ファンからは)批判もあったりしたけれど、振り返ればそのリーダーシップが日本のジャズの歴史を作ってきたのだ。渡辺貞夫がいなければ、今の日本のジャズ状況はまったく違うものになっていたに違いない。
であるから、今、渡辺貞夫が「守り」に入ったところで誰も文句は言うまい。しかし彼は同じ場所には留まらない。今回の新作『イントゥ・トゥモロー』はなんと70作めになる。タイトルからして『イントゥ・トゥモロー』ですよ。これはまだまだ前進していく意思表示なのだ。
今回はジャンルで括ればストレートなアコースティック・ジャズ。ピアノ・トリオをバックにしたクァルテット編成。意外なことにスタジオ録音は6年ぶりで、じっくりと渡辺貞夫のアルト・サックスを堪能できる内容となっている。収録の11曲はすべてオリジナル。アップテンポあり、バラードあり、ブルースもありだが、どの曲もアレンジはいたってシンプル。テーマのメロディがあって、ソロを回して、またテーマで終る。スタイルとしては彼の原点とも言えるビ・バップ。率直に言って地味すぎるくらいの、これまでの多くのアルバムでもっともオーソドックスなジャズの1枚だ。にもかかわらず、最初のひと吹きからぐいぐい引き込まれてしまう。いい音楽には大きな仕掛けも話題もいらない。
これまでもクァルテットのアルバムは、例えばグレイト・ジャズ・トリオ[ハンク・ジョーンズ(p)、ロン・カーター(b)、トニー・ウィリアムス(ds)]や、ジェイムス・ウィリアムス(p)らニューヨークの(当時の)注目若手トリオとの共演などいくつもあった。今回だってどんな大御所とやっていたって不思議ではない。だが今回のバックの3人は、まだ彼らの名前で注目を集めるほどのキャリアと話題はない。でも、気にすることはない。だって渡辺貞夫がこれだけいい演奏をしているんだから。
そのバックはジェラルド・クレイトン(ピアノ)、ベン・ウィリアムス(ベース)、ジョナサン・ブレイク(ドラムス)の3人。常に若いミュージシャンを積極的にフィーチャーし、育ててきた渡辺貞夫の活動歴からすれば無名若手の人選も珍しくはないが、今回は相対的に若さが際立つことになった。昨年、渡辺貞夫と共演したジョナサン・ブレイクが他の2人を紹介しての共演となったというが、ブレイクが32歳、あとのふたりは24歳。今年76歳になる渡辺貞夫にとっては息子世代よりまだ若い。若いがその実力は十分。なんか余裕を感じさせるぐらいに渡辺貞夫と相性がいい。渡辺貞夫のリラックスぐあいがよく伝わってくるのだ。リラックスといっても「ゆるい」という意味でなく、素直というか、肩の力を抜いた実に自然な感じなのだ。
宣伝資料には、「彼らと演奏すると“素(す)”になれる。僕の気分や想いに、彼らはそっと寄り添ってくれる。それが嬉しい」という趣旨のコメントがある。ベテランが若い共演者に対して言う言葉とは思えない素直さだ。このオープン・マインドな姿勢が、新しいことをやろうと構えなくても音楽に常に新しい風を吹かせているんだな。このアルバムには渡辺貞夫の“素”が息づいているんだ。また、「僕は昔から何も変わっていない」ともある。渡辺貞夫の音楽はジャンルやスタイルではないのだ。ただ身を委ねるだけでゴキゲンになれる、“素”だからこその、この存在感をまず楽しみたい。
古くからのサダオさん(って、呼びますよね)ファンはもちろん、これから渡辺貞夫を聴こうという人(選択肢は70枚もありますから)には特にお勧めしたい1枚。「ああ、音楽っていいよなあ…」と、思わずひとりでつぶやいてしまいました。